恐れ入ります、いつものことです。

メランコリックなにゃも雑記

余裕がないのはよきことか…

忙しくしていると、あたまとこころに余裕がなくなる。愚痴が増えるのかと思えばそうではなくて、余計なことを考える時間がないから、前を向いて生きることができる気がする。でも、ふと余裕ができると、この突っ走った時間はなんだったのだろう、と余計なことを考えて、落ち込んでみたり泣いてみたりする。

さて、余裕がないことは、わたしみたいな落ち込みやすい人間にとって、ときによい作用を果たすのではなかろうか。と、たった今、思った。

 

が、

 

どうして文章に起こしてみると嘘があふれるんだろう。

余裕がなくてつかれていることの裏返しでプラスにおもおうとしているだけなんじゃないだろうか。

身体のなかに住んでいるコビトたちに、やすまなくっちゃ いけないよ。と言われている。

 

勘三郎さん、ありがとう。

毎年1度、かならず観にいく歌舞伎。毎年1度なので、たくさんの演目を見ているわけではないし、恥ずかしいのだけれど、勘三郎さんを観たのは何の演目かなぁと考えていた。

野田版鼠小僧、水天宮利生深川 筆屋幸兵衛、菅原伝授手習鑑 寺子屋、ふるあめりかに袖はぬらさじ……このあたりだったろうか。

ほとんど2007年12月大歌舞伎の演目なのだけれど、その前もそのあとも1年に1度は必ず歌舞伎を見ているのに、2007年12月大歌舞伎はとてもよく覚えている。

何をいちばん覚えているかって、海老蔵が美しすぎて……。あの人は歌舞伎をしてりゃーいいのよ! ということでしたが、勘三郎も七之助も勘太郎(当時)もすてきだったのを覚えている。
スイートルームに宿泊し、花道の近くで鑑賞したという贅沢な時間を過ごしたことも、この歌舞伎を印象付けた理由の一つでしょう…。

芸能人の死を想うことはそんなにないのだけれど、勘三郎さんに対しては別の想いがあるようで、少し、泣いてしまいそうになる自分に気づきびっくりしているのだけれども…。最近非常に忙しくしており、先ほど帰ってきたのでまともにニュースも見ていないのに…。死について、何も知らないはずなのに…。

お会いしたこともない人に、ご冥福をお祈りします、とかいうとってつけたような言葉を投げかけたくはないと常日頃思っているのだけれど、

勘三郎さん、今までありがとうございました。心より、ご冥福をお祈りいたします。

その頃の勘三郎さんの成功祈願記事。
http://www.kabuki-bito.jp/news/2007/11/__photo_51.html

笑顔でいるから

リスが頬袋に餌をためるように忙しい。ハムスターが延々にカラカラと走るぐらい忙しい。師走だから仕方がないのか、もしかすると、わたし以外の人だったら少しぐらい頭に余裕ができる仕事量なのかもしれないけれど、わたしには、もーぅ、とってもとっても忙しい。

え…?

とふがいなく思うことについても、もう笑うことにしました。断るところはきちんと断るけれども、引き受けるのであれば、嫌な顔をせずににっこりと受けることにしました。

おそらく、以前からそうしてきたのだけれど、意識してにっこりすることにした。

楽しいから笑顔になるわけではない、笑顔になるから楽しいのだ。

 

の、戦法だ。

 

イエス! シワス! かかってきやがれ! 年末進行!!

パチン、OFF。さようなら

この1週間バタバタと忙しくしており、ひとりでぼんやり考える時間がまるでつくれなかったのだが、はじめての経験をしたり、よき出会いがあったり、とうとうTwitterのアカウントを削除したり(別のアカウント:病気のことなどをつぶやいたりながめたりするアカウント――はやめていないのだけれど)していた。

相手は何も思っていないのかもしれないし、むしろラッキーだから来いよぐらいに思っていそうだったけれど、わたしはとっても嫌な思いをした。最初から呼ぶつもりもなかったくせに、誰かが来られなくなったからと穴埋め的にわたしを呼ぼうとするとは、ひとの心をなんだと思っているのだろう。

友だちと呼べないうすっぺらい関係のままつながっているのも嫌だなぁとおもった。以前から削除しようとおもってできずにいたものが、この嫌な出来事のおかげであっけなく終わりを告げた。

どうしても表面的なつきあいができない。友だちは少なくてもいいと思っている。薄っぺらく、なんにも知らない人のことを“友だち”とは呼べない。友だちのハードルが高いと言われたことがあるけれど、友だちはハードルが高いものだ。

わたしは自分自身、八方美人ではないと思っている。人に嫌われてもいいと思って生きている。だから、自分が好きな人にも嫌われる。それでもいいや。わたしはこういうつき合い方しかできないのだから。

辞めて清々した。

わたしにはもっとやるべきことがあり、会いたい人がいる。

やりたいことをやり、会いたい人に会うために生きているのだ。

 

さようなら。もう一生会わないよ。

編み物と読書とTwitter

 

寒くなってから編み始めても間に合わないのだけれど、部屋にあった毛糸を使ってニットを編み始めた。もっとちゃんとした毛糸を買ってきてつくろうともおもったのだけれど、ひとまず練習の意味も込めて。

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最近、Twitterを見る時間が激減しました。わたしにはこんなふうに、編み物やら読書やらおしごとやら、お風呂のシャワーカーテンをいちごちゃんにしたりとか、やりたいことがたくさんあるのにTwitterばかり見ていては、それらをする時間がなくなってしまうから。そして、いちばんは、ひとりで考える時間がなくなってしまうから。

思い立ったときにまとめて思いを綴れるモレスキンでのジャーナルや、ブログを書いたりするほうが、秒単位で流れていくTwitterを眺めて自分の意見をつぶやくよりも性に合っているのだということはずいぶん前から思っていたのだけれどね。

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※わたしのくせ = 文章を書きなぐる

 

いまは、多くは自分と同じような難病を抱えた人たちの活動を知るため、または新刊本を知るために、いままでとは別のアカウントをつくって本当に知りたい情報のみ見ることにしている。

ふりかえれば、2010年にTwitterをはじめた理由が、退院してきたばかりで時間をもて余していたからというものだった。それ以前は、むしろTwitterをばかにして生きてきたのに(なにが、“学食なう”だよ、誰に有益があるんだょ、ばかなんじゃないの…フォローするとか気持ち悪いんだけど…暇な人しかできねぇだろー、暇人間おつかれー…などと言っていた・苦笑)、やり始めたらとまらなくなった。そして、自分が思っていたばかになり替わり、本当にばかなことに発展したことがあった。

いまようやく、自分のなかの本来のつかいみちでTwitterを活用できているように思う。だからこそ、見る時間が激減したのだとおもう。

どうでもいいことだけれど。

 

最近読んでいる内田樹さんの『街場の文体論』は本当におもしろい。気持ちよくなって、胸にスッとおりてきて、突き抜けます。感謝です。

 

街場の文体論

街場の文体論

 

ごみ箱

ときに薬を飲んだあとのごみもその辺におきっぱなしにするほど怠惰で、整理整頓がへたくそなわたしは、ふと、“たとえ狭い部屋だとしても、ごみ箱が自分の座っているすぐそこに置いてあれば、そこに薬の飲みかすをきちんとポイポイ捨てられるのではないか……”とおもうに至った。

 

で、買った。

 

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※写真はごみ箱の一部

(もっと買ったわけ。玄関にもトイレにも、机の周りにも窓際にも、枕元にも……)

 

で、効果はてきめんである。ほうほう。どうして今まで気づかなかったのかなぁ。

 

一つのごみ箱が、ひと手間かかる(ただ立ち上がって数歩のところだとしてもわたしの場合手間がかかる)場所に置いてあるだけで、薬の飲みかすが散乱していたわたしのへやに、薬の飲みかすがなくなってきたぞ!

 

なんてだらしないんだ、わたしは・・・(こういうときだけ、SLE(全身性エリテマトーデス/罹患している難病)のせいにしてみよう)

 

深く潜れ。

 

きのう、ホットケーキをほおばりつつ読了した本は、

佐々木中著『切りとれ、あの祈る手を<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』である。

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書評めいた立派なことはかけないのだけれど、わたしには勉強になることがじつに多かったし、目からうろこがおちた。ひととおり読んだあと、最初に出た感想は、“再読しないといけない”だった。

 

“近いうち”再読する。

 

“近いうち”が本当なのか、嘘なのか……“近いうち”解散するのは本当なのか、嘘なのか。なんて馬鹿げたあらそいをしているけれど、“ことば”がそのとおり実行できず、嘘になることはしばしばある。だからってみんながうそつきかと言えばそうではない。

責任のあるひとの“ことば”は、熟考したうえで一つひとつ丁寧に紡ぎださねばならないのだと思うと、ひじょうに残酷で、死んだほうがましのような気がする。睡眠不足のなか、重要な、重大な事柄の判断をゆだねられ、白か黒かを分けたりしなければならない。きちんとしたことばで、正当な理由のもとに。

わたしにはそんなことはできないし、そんなことをしていたら気がくるってしまうと思う。それはきっとグレーがすきだからだし、人間にはグレーがたくさんあると思っているからだ。

けれども、ことばは本来、こうして、熟考して、一つひとつ丁寧に紡ぎ出していくものなのではないか。本当は苦しみのなかから産まれてくるのではないだろうか………

 

文章を書き連ねることはすきだ。昔からだいすきだ。でも、ことばを連ねていくたびに葛藤することがある。

 

わたしは、うそを、かいているのでは、ないか、と。

 

あたまのなかにある、もやもやしたりきらきらしたりしている感情は、ことばにしたら嘘になりそうだ。こころのなかで思っていたことをいざ文章にしてみると、言いたいことと書いていることの内容に差異が生じ、ちがうちがう! ちがうんだ! こうじゃないと言いながらも書き続け、しまいには別の話に転じてしまうこともある。

だいすきな音楽のことを文章で表現するときも、何かがちがう。「このだいすきだという感情に“ことば”は必要なのだろうか」と考えてしまう。

 

えいがについて 文章にしてみたところで 観ているときの感情は、じぶんの文章に描かれているのだろうか。観ているときに感じた自分の脳や心臓の気持ちを、ことばで表すことができているのだろうか。

 

ずーっと葛藤している。10年以上も前から。

 

だから、書く。モレスキンに・ブログに・SNSに…どこにでも。ペンをもって・キーボードを打って・書いて書いて書きまくるけど、どうしてもよくわからない。けれども書く。右手が。書いたらわかるかもしれないから。

 

深く潜れ。自分が納得できるまで。

 

佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』の話では、まるでなくなってしまいました。

まぁ、そういうふうに、推敲も構成もしない文章というのはどこへ転がるかわからない。だからおもしろい、自分で言ってりゃせわがない、けれども何を考えているのかがよくわかる…自己陶酔型ダメ人間特有の、真夜中の、戯言です。