深く潜れ。
きのう、ホットケーキをほおばりつつ読了した本は、
佐々木中著『切りとれ、あの祈る手を<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』である。
書評めいた立派なことはかけないのだけれど、わたしには勉強になることがじつに多かったし、目からうろこがおちた。ひととおり読んだあと、最初に出た感想は、“再読しないといけない”だった。
“近いうち”再読する。
“近いうち”が本当なのか、嘘なのか……“近いうち”解散するのは本当なのか、嘘なのか。なんて馬鹿げたあらそいをしているけれど、“ことば”がそのとおり実行できず、嘘になることはしばしばある。だからってみんながうそつきかと言えばそうではない。
責任のあるひとの“ことば”は、熟考したうえで一つひとつ丁寧に紡ぎださねばならないのだと思うと、ひじょうに残酷で、死んだほうがましのような気がする。睡眠不足のなか、重要な、重大な事柄の判断をゆだねられ、白か黒かを分けたりしなければならない。きちんとしたことばで、正当な理由のもとに。
わたしにはそんなことはできないし、そんなことをしていたら気がくるってしまうと思う。それはきっとグレーがすきだからだし、人間にはグレーがたくさんあると思っているからだ。
けれども、ことばは本来、こうして、熟考して、一つひとつ丁寧に紡ぎ出していくものなのではないか。本当は苦しみのなかから産まれてくるのではないだろうか………
文章を書き連ねることはすきだ。昔からだいすきだ。でも、ことばを連ねていくたびに葛藤することがある。
わたしは、うそを、かいているのでは、ないか、と。
あたまのなかにある、もやもやしたりきらきらしたりしている感情は、ことばにしたら嘘になりそうだ。こころのなかで思っていたことをいざ文章にしてみると、言いたいことと書いていることの内容に差異が生じ、ちがうちがう! ちがうんだ! こうじゃないと言いながらも書き続け、しまいには別の話に転じてしまうこともある。
だいすきな音楽のことを文章で表現するときも、何かがちがう。「このだいすきだという感情に“ことば”は必要なのだろうか」と考えてしまう。
えいがについて 文章にしてみたところで 観ているときの感情は、じぶんの文章に描かれているのだろうか。観ているときに感じた自分の脳や心臓の気持ちを、ことばで表すことができているのだろうか。
ずーっと葛藤している。10年以上も前から。
だから、書く。モレスキンに・ブログに・SNSに…どこにでも。ペンをもって・キーボードを打って・書いて書いて書きまくるけど、どうしてもよくわからない。けれども書く。右手が。書いたらわかるかもしれないから。
深く潜れ。自分が納得できるまで。
※佐々木中さんの『切りとれ、あの祈る手を<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』の話では、まるでなくなってしまいました。
まぁ、そういうふうに、推敲も構成もしない文章というのはどこへ転がるかわからない。だからおもしろい、自分で言ってりゃせわがない、けれども何を考えているのかがよくわかる…自己陶酔型ダメ人間特有の、真夜中の、戯言です。