恐れ入ります、いつものことです。

メランコリックなにゃも雑記

生きていれば笑うことができるじゃん

嫌なことはたくさんあるけれど、きっと私は今の仕事が好きなのだと思う。もしかすると、強制的にそう思うようにしている? いや、たぶんなのだけれど、好きなのだと思う。

私は、全身性エリテマトーデス(SLE)に罹患し、健康人のように身体が動かない。死んだように眠らないとダメな日もあるし、実際昨日は8時間起きて、あとは眠っていたのだ。ふつうは逆なのではないだろうか……。健康人は多く眠ることもできないと聞いたことがあるので、やはり私は病気なのだなぁと思った次第である。

SLEと診断されて3年めぐらいになるので、病気である自分を受け止めているつもりではいるけれど、100%受け止めているかと言えば嘘になり、そんな強がりは、自分の中では言わないようにしている。家族の前や、社会に出ているときには強くふるまっていたりもするけれど、強がっていると思われているのかもしれない。

じゃあ私が病気ではなかったら、自分自身の運命を100%受け入れられていただろうか。健康だからといって自分自身のことを100%受け止めることなんてできやしなかったのではないだろうか。そう思うと、結局健康でも病気でも同じことで、私はすでに、病気であるから私であるのであって、とても不思議な気分に陥る。

病気であることで気持ちの面で得をしたことは幾度となくある。健康なふりをしていた時分、忙しいふりをして見て見ぬふりをしていた自分自身の心。気づきもしなかった朝焼けや夕焼けの空の色。他人の心の底にある痛みや哀しみ。そして憎しみや怒りまでもが透けて見えるようになったのだ。浅井健一くんの歌のようだけれど、この世の中にきせきが起きて、私の病気がまっさらとなり、重くのしかかる病を抱えた心も消えてしまったら、私はそのことに気づかず、また忙しいふりをして空を見ることも忘れ、人の心に土足で踏み込んで傷つけていたとしても知らんふりをしてしまうかもしれない。

そりゃあ、健康人のふりをしていた(SLEは診断される前から気質をもっているはずなので、ふりをしていると言っている)頃だって、人の気持ちに寄り添っているつもりで生きていた。でも、その心は以前にも増して強くなり、人の痛みが見えるようになったのは、自分が病気と診断を受けてからのことだ。

生きているということが、こんなにすごいのだということ。今まであたりまえだったことはあたりまえではないのだということ。それを心から感じることができたのだった。

思うように身体が動かないことで、もっと仕事したいのになぁと思っても、身体が悲鳴をあげてしまい、寝ていないといけなかったりと、悔しい思いをたくさんしているのも事実。動けなくて悔しくて、涙が出ることもあるけれど、私は私なりに自分のできることを精いっぱいするしかないのだと、少しあきらめないといけない。そのあきらめがどうにもうまくいっていない部分があり、“わたしはできないのだ”と割り切ればよいところを無理して“がんばります”と言ってしまうこと……どうにかしたい。。。

けど、そこで踏ん張ろうとするということは、やっぱり今の仕事が好きなのかもしれないなぁと思う理由につながるわけで。こんなふうに書き連ねて、自分の心に納得させているだけなのかもしれないけれど(繰り返し)、こんなことを考えながら日々を生きているって、贅沢だよなぁと思う。

SLEと診断を受けてからのちに東日本大震災が起こった。未曾有の自然災害ということで、ここでもまたあたりまえのだと思っていたことがあたりまえではないことに気づく人がたくさん出たわけだけれど、わたしはそれよりも一歩前にあたりまえだと思っていたことがあたりまえではないことに気づけていた分、落ち着いて行動できたように思う。

今も、災害や自分の病気とは闘い続けていかないといけないけれど、自然とも病気とも贅沢を言わずにうまく共存できればよいな、と戦いを好まないわたしは思います。

生きてりゃあ、少しでも笑顔になれることだってあるんだよ。

だから、自分から命を絶っちゃあ、もったいないんだよ。っていう、生きていることの素晴らしさを(現代は原発の問題等あり、生きることがつらいとか、未来に期待をもてない人が増えていてなんて言ったらよいのかわからないところもあるけれど)、若人に伝えていかないでどうするんだって…思う。