恐れ入ります、いつものことです。

メランコリックなにゃも雑記

いじめについて

今回の滋賀のいじめについては、特にふれようとは思わない。でも、少しいじめについて書いてみようと思う。

ほとんどの人が、いじめに遭ったことがあるのか、それとも、ほとんどの人がいじめに遭ったことがないのか。それすら私には疑問だけれど、確かなことを言えば、私はいじめられたことも、いじめたこともある。

“いじめ”とは言わないのかもしれないけれど、気づかないうちに人を嫌な気持ちにさせてしまったことは、誰にでも少なからずあることだ。そして、自分が嫌な気持ちになれば、人に自分と同じような嫌な気持ちをさせてはいけないというのが人としてのルールでもある。そんなきれいごとはまかりとおらないのが世の中。ルールどおりにはいくはずもなく、人はいじめ、いじめられ、を繰り返し成長していくのかもしれない。

学生のうちだけではない。社会に出てからもいじめは存在する。葬式ごっこや暴行をしないまでも、言葉の暴力で心を傷つけられ、死に追いやられた人もいるのだろう。こんなことは絶対にあってはならないことだ。

 

いじめを受けて、思いつめた少年少女や大人がすがる場所はどこだ? 友人や両親、兄弟、親戚……すがりたい人は本当は身近な人だ。ひどい場合は警察かもしれないし、家族関係が崩れている場合は先生なのかもしれない。少年少女、大人たちは孤独を抱えながらも逃げ道を探すべく、自分の思いつくままに必死に誰かにすがりたいはずなのだ。命の電話に託すかもしれない。とにかく、助けてほしいとすがる誰かを求めているはずだ。

少年少女の居場所は学校が主体で、自分の稼ぎもないので、第三者に相談をもちかけることもあまりできないだろう。彼らの声を受け入れる相手が家族であればそれは命を絶つまではいかないのではないか。暴行を受けて顔を傷つけられ、心を締め付けられた子どもを“もう学校に行かなくていいんだよ”とギュッと抱きしめてあげるそれだけで、子どもは救われるのではないか。本人は心配をかけたくないと家族にいじめを隠すだろう。けれど、子どもと向き合っている親であれば、兄弟であれば、親戚であれば、子どもの異変に気づくはずだ。そして聞きづらいことであろうが、子どもの気持ちを汲んで話し合い、子どもを楽にさせてあげることができるはずだ。わたし、生きていてよかったんだ。という希望をもたせてあげることができるはずだ。

でも、こんなふうにうまくいかないから、いじめられた恐怖や、やるせなさや、あきらめが、彼らを死に追いやってしまう。家族関係がこじれている家庭では、こんなことはきれいごとに過ぎない。だからこそ、少年少女の居場所である学校や、塾などの大人たちが彼らを受け止め、彼らの声を受け入れなければいけない。

一人では足りないかもしれない。でも、一人でもいいからいじめられている人の立場に立って考えられる人や、いじめられている人の話を聞いて、その人を受け入れてくれる人の存在が重要なのだと思う。

いじめもせず、いじめられもしていない人たちは、いじめられている人に声をかけたくても、もしかすると自分もいじめの標的になってしまうという恐怖から手を差し伸べられないのかもしれない。でもそこは少し、勇気をもってほしい。こんなんじゃよくないんだということを自覚してほしい。私は学生の頃、自分も無視などをしていた子に手を差し伸べたことがある。“ごめんね”と謝り、今まで悪口などを言っていた人たちに対しても“もうやめようよ…こんなことよくないよ”と伝えた。少し勇気が必要だったけれど言ってよかったと思っている。

いじめはきっと、なくならないと思う。ウマが合わない人たちがあふれている社会だからそれはしかたのないことだ。でも、それは、この人自分とは考え方も感じ方も違って、嫌な奴だなぁと、思うことでおなかいっぱいにすればいいのだ。悪さをしてやろうなんて、考えちゃぁいけない。自分と合わない人、イラッとくる人は当たり前のように存在する。自分がそう思う分、相手にもそう思われている。自分がいじめた分、いじめられる可能性があるということだ。

 

どんなに嫌いな人にでも気持ちのいい挨拶をしてあげればいい。そして、話を聞いてあげればいい。悪い人なんて最初からいないのだから。